1940-1973 TIME LINE

 
1940年
11月27日 午前8時(辰年・辰の刻)に李海泉(父)と何金棠(母)の次男としてサンフランシスコの東華病院で生まれる。中国名:李振藩、英語名:ブルース・リーと名付けられた。
1941年
1月 広東語映画『金門女』に女の赤ちゃん役で登場。
2月 リー一家はサンフランシスコから香港へ渡った。
1946年
  香港映画『富貴浮雲』に子役として出演する。
1947年
9月 ラサール学院初等部に入学。父親から太極拳の手ほどきを受ける。
1950年
5月31日 主演作『細路祥』公開…大同公司製作。
監督:馮峰。主演:伊秋水、馮峰、李海泉。
1951年
4月12日 助演作『人之初』公開…大觀編委會製作。
監督:秦剣。主演:張瑛、紅線女。この時に芸名を李小龍とした。
1952年
9月 ラサール学院中等部に入学。この頃から素行が悪くなり喧嘩を繰り返す不良少年となる。
1953年
4月30日 助演作『苦海明燈』公開…中聨公司製作。
監督:秦剣。主演:張活游、李清、張瑛。
6月28日 助演作『滋母涙』公開…紅棉公司製作。
監督:秦剣。主演:張瑛、紅線女。
9月27日 助演作『父之過』公開…達成影片公司製作。
監督:孫偉。主演:龍碧雲、蒋桂林、小麒麟、小南紅。
10月8日 助演作『千蔓人家』公開…中聨公司製作。
監督:珠幾。主演:呉楚帆、黄曼梨、李清。
11月27日 助演作『危棲春曉』公開…中聨公司製作。
監督:李鐡。主演:張瑛、呉楚帆、廬敦、梅綺。
1954年
  詠春拳道場に入門。達人葉問(イップマン)のもとで修行に明け暮れる。入門の動機はもちろん「喧嘩に勝つため」
1955年
1月8日 助演作『愛続集』公開…中聨公司製作。
合同監督:李鐡、李晨風、呉回、秦剣、珠幾。主演:張活游、梅綺、馬師會、白燕、呉楚帆。
2月11日 助演作『弧星血涙』公開…中聨公司製作。
監督:珠幾。主演:呉楚帆、張活游、容小意。
6月24日 助演作『守得雲開見月明』公開…大成公司製作。
監督:蒋偉光。主演:芳艶芬、江一帆、胡楓、朱丹。
9月8日 助演作『弧兒行』公開…天公公司製作。
監督:錢大叔。主演:登碧雲、梁醒波、鳳凰女。
10月21日 助演作『兒女債』公開…中聨公司製作。
監督:秦剣。主演:張活游、紫羅連、黄曼梨。
1956年
2月25日 助演作『詐癲納福』公開…大成公司製作。
監督:蒋偉光。主演:新馬師曽、胡楓、白露明。
12月22日 助演作『早知富初我吾嫁』公開…大成公司製作。
監督:蒋偉光。主演:芳艶芬、任剣輝、胡楓。
  この年、不良グループとの付き合いが深くなり、遂にラサール学院から退学を宣告される。
1957年
3月14日 助演作『雷雨』公開…華僑電影企業公司製作。
監督:呉回。主演:白燕、張瑛、李清、梅綺、廬敦。
  ラサール学院を退学になった後、フランシスコザビエル校に編入するが、ここでも暴れ回り、対立する不良グループや時には三合会(黒社会)の連中とも喧嘩を繰り返す。ブルースは三合会の幹部をブチのめしたために、連中には一時期マジで生命を狙われていた。この時の因縁がブルースの死に深く絡んでいるとの噂もある…
1958年
3月29日 香港の高校ボクシングチャンピオンになる…ブルースの最後の相手は、過去3年連続チャンピオンのイギリス人ゲイリー・エルムズだったが、見事KOで勝利を飾った。
  ダンス大会にも出場、チャチャチャの香港チャンピオンとなる。香港映画初のカラー作品『人海弧鴻』に出演…少年時代の作品の中で最高傑作の呼び声が高い名作(公開は2年後)

対立する不良グループのボスと一騎打ち、相手に大怪我を負わせ、警察沙汰となる。「このままではヤクザになってしまう」と心配した両親はブルースに市民権があるアメリカに行くように説得する。

北派少林拳の達人:邵漢生師父に弟子入り。「功力拳」と「節拳」を学ぶ。
1959年
4月29日 香港を離れ、船でアメリカへと向かう。ブルースは3等席のチケットしか持ってなかったが、1等席の客にダンスを教えて人気者になったため、船上での生活のほとんどを1等席で過ごした。
5月17日 サンフランシスコ到着。先ずは父の友人宅に身を寄せるが、家主と反りが合わず直ぐにその家を飛び出す。それからルビー・チョウのレストランに住込の皿洗いとして働く。またダンス教師のアルバイト等もして生活費を稼いでいた。
9月3日 エジソン職業訓練校に入学。
  ブルースの武術に惚れ込んだターキー木村が弟子入りしてくる。ターキーとは生涯の親友となる。
1960年
3月3日 主演映画『人海弧鴻』公開(香港)…華聨公司製作。
監督:李晨風。主演:呉楚帆、白燕、馮峰。
  シアトルのローカルテレビ番組『東洋の護身術』にレギュラー出演。

クンフーを実演中に日本人の空手有段者:植地氏から挑戦を受け、シアトルのYMCAで手合わせをすることになった。結果は、わずか11秒でブルースがKO勝利。
12月2日 エジソン職業訓練校を卒業。
1961年
3月27日 ワシントン大学哲学科に入学、かっての不良は真面目な青年へと変貌を遂げた。
1962年
4月 シアトルのチャイナタウンに振藩国術館を開設。
1963年
5月 渡米後、初めて香港へ帰国し、8月まで滞在。

著書「基本中国拳法」を出版する。
1964年
5月 ワシントン大学を中退。
7月19日 オークランドに振藩国術館を設立。この頃のブルースはジェームズ・リー宅に居候。
8月2日 ロングビーチで開催された第一回世界空手選手権で模範演武を披露…超高速のパンチや蹴りを繰り出し観衆の度肝を抜いた。この大会にはアメリカから多くの格闘家が集まっていたが、その中でもブルースの実力は図抜けていた。ここでの演武がきっかけでハリウッドから声がかかる。この大会が縁でダニー・イノサントと出会う。
8月3日 振藩国術館オークランド支部のレッスン開始。
8月17日 同じ大学の医学部の学生だったリンダ・エメリーと結婚。
9月2日 米No.1の格闘技雑誌「BLACK BELT」に掲載される
11月 「武術を外国人に教えてはならぬ」という武術界の古い掟を破ったために、チャイナタウンの武術界から挑戦を受ける。相手は白鶴拳の達人ウォン・ジャック・マン。試合形式は禁じ手無しのデスマッチであった。ブルースはウォンをボコボコにして勝利したが、ウォンが防御に徹して逃げ回ったために仕止めるのに、思ったより時間がかかった事を反省。自らの格闘スタイルを変えていくきっかけとなった。
1965年
2月1日 長男ブランドンが生まれる。
2月4日 20世紀フォックスのスクリーンテストを受ける。
2月8日 父李海泉が他界。そのため香港へ一時帰国、父親の葬儀に参列した。葬儀後、とんぼ返りで再び米国へ。
  フォックスのスクリーンテストの結果は見事に合格! 中国人探偵が活躍する『ナンバーワンサン』の企画が立ち上がり、契約料として1800ドルを受け取った。
5月 今度は妻子を連れて香港へ戻り、9月まで滞在する。息子ブランドンを連れて師匠の葉問を訪問。
1966年
3月4日 テレビ番組『グリーンホーネット』のパイロットフィルムを撮影。
3月 演劇学校に入り、レッスンを受ける。

カルフォルニア州空手トーナメントにゲスト出演し模範演武を披露…ブルースは当時の空手の試合スタイル(寸止め)の実戦性を疑問視していたために、選手としては出場しなかった。それをとって「ブルース・リーは口だけで強くない」という輩が何人も現れ、ブルースに挑戦したが、全ての挑戦者を数秒以内に倒してのけた。
5月 ロサンゼルスに引っ越す。
6月6日 テレビシリーズ『グリーンホーネット』撮影開始。
9月9日 『グリーンホーネット』放映開始(翌年7月14日放映終了)…
  ブルースは主人公ホーネットの相棒で空手の達人加藤の役。ホーネット役のヴァン・ウィリアムスよりもブルースの武道の方に注目が集まり、ジェームス・コバーン、リー・マーヴィング、ジェームス・ガーナー等の映画関係者が続々と弟子入りしてきた。(後に1時間の個人指導料は275米ドル=当時約10万円まで高騰、全米一高い授業料と言われた)アメリカの空手道場では、稽古中に道場で「グリーンホーネット」を放映する所もあった。空手師範は「KICK LIKE KATO(カトーのように蹴れ!)」と弟子を指導。
1967年
1月27日 『バットマン』に加藤としてゲスト出演。
2月5日 ロスに3つ目の道場を開設。支部長はダニー・イノサント師父。
5月6日 ワシントンDC国際空手選手権大会にて模範演武を披露。
6月24日 ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開催された全米オープン空手選手権大会にゲスト出演。本大会優勝者チャック・ノリスと友達になる。
7月 自ら創始した武道を「截拳道−Jeet Kune Do」と命名
7月14日 TV作品『鬼警部アイアンサイド』に空手師範役でゲスト出演
7月30日 ロングビーチ世界空手選手権大会で、当時としては画期的なパンチやキックに加え、投げも含めた総合格闘技系のフルコンタクトスパーリングを披露した。また、この大会で初めて自ら発明したオープンフィンガーグローブを着用…オープンフィンガーグローブは改良され、現在PRIDEを始めとする総合格闘技の大会で使用されている。
10月 「BLACK BELT」で再び特集を組まれ、世界10大武術家の一人に選出される。
11月4日 柔術家ウォーリー・ジェイ主催の柔術界記念式典に著名ゲストとして招かれる。
  スティーブ・マックィーンが弟子入り。赤のポルシェを購入し、マックィーンとよく競走して遊んでいた。

全米空手チャンピオンのチャック・ノリスを個人指導(翌年1月まで)。…ノリスはこの頃、負けなしの強さを誇っていた。
1968年
  ロマン・ポランスキー、シャロン・テートが弟子入りし、ブルースからスイスにて個人指導を受ける(ポランスキー夫妻はブルースに航空券のチケットまで送付)
6月23日 テコンドーの達人ジューン・リー主催のワシントンDC国際空手選手権にて模範演武。
  ロサンゼルスに近いカルバーシティへ引越

「BLACK BELT」誌が主催したマーシャルアーツフォーラム(各武道・格闘技流派の代表者対話会)にジークンドー代表として出席。
7月5日 『サイレンサー/破壊部隊』公開…武術指導を担当。
8月6日 『かわいい女(Marlow)』に殺し屋ウィンスロー・ウォン役で出演。電灯蹴りが話題となった。
10月1日 ベルエアへ引っ越し。
11月12日 『ブロンディー』放映…空手師範役でゲスト出演。
11月15日 同月22日まで『ヒア・カム・ザ・ブライズ』撮影に入る。
1969年
4月16日 同月24日まで『春雨を歩けば』の撮影に入る…武術指導を担当。大柄なアメリカ人のスタントマンに挑発を受けるが、サイドキックで吹っ飛ばした。
4月19日 長女シャノン誕生。
5月10日 ワシントンDC国際空手選手権大会に著名ゲストとして招かれる。
8月9日 マンソンギャングに友人シャロン・テート、ジェイ・セーブリングが惨殺される…ブルースもこの事件に関して警察から事情聴取を受けた。
1970年
4月9日 ブランドンを連れて香港に里帰りし、テレビ番組『歓楽今宵』に出演。1インチパンチやサイドキックによる試し割等の演武を披露、視聴者の大好評を得る。
4月10日 テレビ番組『金玉満堂』に出演。
5月24日 ワシントンDC国際空手選手権大会に著名ゲストとして招かれる。
8月 トレーニング中に仙骨の神経に損傷を受け、数ヶ月間リハビリ生活を送る。

『燃えよカンフー』の企画が立ち上がるも中断…
1971年
2月1日 『サイレントフルート』のロケハンへとジェームス・コバーン、スターリング・シリファントと共にインドへ出発するが、3人の意見が合わず中断せざるを得なくなった。ブルースとコバーンの関係が一時険悪となってしまう。
5月 ゴールデンハーベストと契約成立。
6月24日 TVドラマ『ロングストリート』撮影(7月1日まで)。テレビ放映後は批評家の絶賛を受け、主役ジェームス・フランシスカスよりもファンレターが多く届いた。
6月28日 ブルース・リー香港映画復帰第1作が『ドラゴン危機一発』に決定。
7月16日 タイのペイチュンで『ドラゴン危機一発』の撮影開始。
9月 九龍の明徳園マンションに引っ越し、アメリカから妻子も連れてきた。
9月3日 『ドラゴン危機一発』完成。
9月3日 テレビ番組『歓楽今宵』出演。
9月7日 アメリカに戻り『ロングストリート』3話分を追加収録。
9月16日 「BLACK BELT」誌の表紙となる。
10月 主演第2作『ドラゴン怒りの鉄拳』の撮影開始。
10月23日 ロバート・ベイカーと『歓楽今宵』に出演。ベイカー相手にスパーリングを披露した。ブルースのスピードの前にベイカーは手も足も出なかった。
10月31日 『ドラゴン危機一発』香港公開…ゴールデンハーベスト製作。監督:ロー・ウェイ。主演:ジェームス・ティエン、マリア・イー、ハン・インチェ、トニー・リューイン、ノラ・ミャオ。香港映画史上No.1の興行収入を記録した。
12月7日 『燃えよカンフー』の主役がデビット・キャラダインに変更になったとの連絡を受ける。
12月9日 カナダのテレビ番組『ピエールバートンショー』に出演。武道哲学や映画界での野望などを語る(後にロストインタビューとしてビデオ発売)
12月29日 ゴールデン・ハーベストとの共同出資でコンコルド・プロダクション(協和電影公司)を設立。
1972年
3月11日 『ドラゴン怒りの鉄拳』プレミア上映出席…観客の大絶賛を受ける。
3月22日 『ドラゴン怒りの鉄拳』香港公開…ゴールデンハーベスト製作。監督:ロー・ウェイ。主演:ノラ・ミャオ、ジェームス・ティエン、ハン・インチェ、橋本力、ロバート・ベイカー。前作が作った興行収入の記録を塗り替える大ヒット!
  『怒りの鉄拳』は香港だけでなく、東南アジア各地で新記録を樹立!シンガポールでは、劇場に客が殺到し交通混雑まで引き起こしたために警察が上映延期を命じ、2ドルのチケットに45ドルの値が付いた。フィリピンではあまりのヒットに自国の映画業界を保護するために、打ち切りを命じられた。

次回作として『冷面虎』と『黄面老虎』の2本の企画が立ち上がるが、監督ロー・ウェイと意見の合わないブルースはこの企画を蹴ってしまう。(『冷面虎』はその後、王羽主演で製作され、『黄面老虎(邦題;地獄の刑事)』はチャック・ノリス主演で製作される事になる)

ブルースは上記2本の企画に代わって『ドラゴンへの道』の製作を決定。
5月7日 『ドラゴンへの道』撮影のためローマへ出発。
5月18日 ローマから帰国、香港でのスタジオ撮影に入る。
6月19日 長男ブランドンと台風災害のチャリティー番組に出演。ブランドンは7才ながらも蹴りによる板割りを見事に成功させた。
6月28日 『ドラゴンへの道』の共演者チャック・ノリス、ボブ・ウォールとTV出演
  赤のメルセデスベンツ350SLを購入

武侠映画『細鳳』を企画。時代劇用の衣装を身に着けてスナップ撮影をするが、制作には至らなかった。

友人ジェームス・リーの教則本「詠春クンフー」の技術顧問を務める…ジェームスは、この年に急死してしまう。

「BLACK BELT」誌が選ぶの世界10大武術家のNo.1(ホール・オブ・フェーム)に選出され、武術家として最大の名誉を得る。
7月29日 九龍塘金巴倫道41号にある大邸宅「栖鶴小築」を購入
  小麒麟の初めての主演映画『麒麟掌』の武術指導を担当。ブルースは製作発表の記者会見にもハーベストのスターを引き連れて出席した。
9月 『死亡遊戯』の撮影スタート。
11月 「栖鶴小築」に引っ越す。

自分のネーム入りのゴールドロールスロイスを注文。
11月23日 ワーナーブラザースと『燃えよドラゴン』の出演を契約。
12月1日 葉問師匠死去。ブルースは葬儀にきちんと参列(葬儀の写真あり)したが、彼の成功を嫉む者から「師匠の葬儀に列席しなかった恩知らず」等のデマを飛ばされる。
12月 過労のために倒れ、1ヵ月間自宅療養。
12月30日 『ドラゴンへの道』香港公開…コンコルドプロダクション製作。監督:ブルース・リー。主演:ノラ・ミャオ、チャック・ノリス、ボブ・ウォール、黄仁植、ウェイ・ピン・アオ、ジョン・ベン、小麒麟。またもや前2作を上回る史上最高記録を樹立。
1973年
1月1日 ゴールデンハーベスト新年会に出席。
1月8日 『燃えよドラゴン』の撮影開始。
2月1日 AIA保険会社で20万ドルの生命保険に加入。
  『燃えよドラゴン』セットにてBBCのテレビ取材を受ける。
2月28日 母校ラサール学院の記念式典に出席。
3月1日 『麒麟掌』公開…ブルースの盗撮映像を無許可で劇中に使用したため、ブルースは激怒! 後に訴訟問題にまで発展し、小麒麟との友情にもヒビが入ってしまった。
3月15日 撮影現場で暴漢から挑戦を受けるも一瞬でブチのめし、翌日の新聞紙面をにぎわした。この一件以来、撮影所でブルースに逆らう者は誰もいなくなった。
4月 ジェームス・コバーンが『サイレントフルート』再開の企画を持って香港へやって来る。ブルースは啓徳空港まで出迎えた。
4月30日 Lloyds of London保険会社で135万ドルの生命保険に加入。
5月10日 ハーベストのスタジオで一時意識不明の重体に陥る。そのまま病院に運ばれ入院。
5月13日 退院。
5月25日 アメリカでCTスキャン等の精密検査を受けるが、診断結果はどこにも異常なし…
7月5日 ハーベストの試写室で宿敵ロー・ウェイを撃退するが、警察沙汰となってしまう。
7月5日 ロー・ウェイ事件後そのまま『歓楽今宵』に最後のTV出演…司会者に事件の顛末を実演を交じえて話す。ブルースのパンチを肩に受けた司会者はフッ飛んでしまう。
7月20日 女優ベティー・ティンペイの部屋で倒れ、病院へ運ばれるが、午後11時30分死亡。
7月25日 九龍殯儀館で盛大な葬儀が行われた。葬儀場には数万人のファンが殺到。
7月28日 シアトルのバターワース葬儀場で親しい人だけ集めて葬儀。スティーブ・マックィーン、ジェームス・コバーンがブルースの棺を担いだ。その後、レイクビュー墓地に埋葬される。
8月19日 ハリウッドのグローマン・チャイニーズ劇場で「燃えよドラゴン」公開…ワーナーブラザース&コンコルドプロダクション製作。
監督:ロバート・クローズ&ブルース・リー。主演:ジョン・サクソン、ジム・ケリー、シー・キエン、ボブ・ウォール、ボロ・ヤン。
『燃えよドラゴン』はアジアのみならず、欧米でも大ヒットを記録し、全世界でブルース・リーブームが吹き荒れることになった。
9月24日 香港政庁による検死裁判の結果が発表。死因はアレルギー性のショックが引き起こした脳浮腫とされたが誰も納得していない…
▲UP

これ以降の流れは、本サイトのコラム「死亡遊戯製作秘話」をご覧下さい。