#7 The Secret of「東から来たドラゴン」
 


『死亡の塔』の失敗で打ちのめされた呉思遠であったが、まだ諦めてはいなかった。
彼は、ラム・チェンインと再びタッグを組み、リーのオリジナルアイデアを基に撮影されていた75年版死亡遊戯の製作を再開したのであった。彼らはタン・ロンを説得して再びリーの代役を演じさせ、80〜82年の間にいくつかのシーンを追加撮影した。しかし、これもまた陽の目を見ることはなかった。レイモンド・チョウは前述のようにジャッキー・チェンにかかりきりで、もうブルース・リー作品に金を出す気はなかったからである。
photo香港で製作するのは無理だと感じた呉思遠とラム・チェンインは、海外に目を向ける。そして82年にシーソナル軍団は、イタリアへと渡った。おそらく呉思遠は、ブルース・リャンの『無敵のゴッドファーザー!ドラゴン世界を征く』をローマロケで製作した時、現地の映画会社と何らかの接点を持ったからイタリアを選んだのであろう。

ラム・チェンインは、途中で香港へ戻ってしまったが、呉思遠はイタリアのホラー映画監督ルチオ・フルチ(『サンゲリア』)やジョー・ダマト(『屍肉の愛』)と共作に向けて話し合いをし、いくつかのシーンを撮影した。ホラーファンには超有名であるルチオ・フルチは、残酷描写にかけては右に出る者はいないと言われている(それしか取り柄がないとも言われている)監督で、このイタリア版『死亡遊戯』では、リーが残したフィルムのイメージとは全く違うホラー系の映像が撮影されていた。しかし結局は契約問題でこじれ、このフルチバージョンも一時中断する事になる。
そして83年には、スペインの映画監督ジェフ・フランコ(『美女の皮を剥ぐ男』)がまた別のバージョンの「死亡遊戯」を作り始めた。こちらもフルチ版と同じく、ゾンビや死霊等が登場するホラー系の作品となる予定であり、イタリア、スペイン、南アメリカで撮影されていた。
それから84年に入り、フルチ版死亡遊戯も南米のジャングルで撮影再開の運びとなった。フルチ部隊は撮影途中に現地人が巨大アナコンダを捕まえる場面に遭遇、その様子をフィルムに収める事にした。現地人が、アナコンダの腹を裂くと中から本物の人間の死体が転がり出てきた。それを見てフルチは呟いた。「この映像は、塔内で殺された陳元の末路という事にしよう」(…アホ過ぎ)

残酷大将フルチは、そんな川口浩探検隊ばりの映像を撮ってばかりで、もはやオリジナル版の欠片もなくなりかけてしまっていた。
「フルチ達は何処へ向かおうとしているのか?」と香港側スタッフは悩み始めていたが、結局はシーソナルとイタリア・スペイン版死亡遊戯もお蔵入りとなり、歴史から抹殺されてしまった。当然と言えば当然である
photoここで呉思遠が長年の間、抱いていた『死亡遊戯』製作の夢は儚く消えてしまった。彼はこの時の屈辱をバネに、後年ブルース・リーへの愛に満ちたオマージュ映画『シンデレラボーイ』を製作する。この人ってホントにリー映画を作りたかったんだろうな…

何もいいことがなかったように思える84年であるが、この年はリーファンにとって久々のビッグニュースがあった。ジャッキー人気も安定して余裕が出来たのか、レイモンド・チョウが『ブルース・リーの神話』を製作したのであった。この神話は、関係者のインタビューから主演作のハイライトシーン、スクリーンテストや子役時代の映像までが収録された盛り沢山の内容で、数多くのリー関連のドキュメンタリーでは最高傑作であると言われている作品である。しかし何と言っても最大の目玉は『死亡遊戯』の未公開シーン(当時)が数分間収録されている事だった。もはや伝説化していたこれらの映像を見たファンは感動で涙を禁じ得ることが出来ず、リーの格好良さに誰もが「まだ望みがある」と思ったものだった。しかし『神話』公開から10年以上もの長きに渡り全く『死亡遊戯』関連の映像が表に出てくる事はなくなってしまい、時代は俗に言うブルース・リー氷河期へと突入していく事になる。(続)
 
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