#1 Return of the Dragon
 


1970年、ブルース・リーは母グレースの米国移住の手配をするため香港へ一時帰国した。当時、香港では『グリーンホーネット』(66、67年20世紀フォックス製作)が放送されていて、ちょっとしたブルース・リーブームが起きていた。リーは香港のファン達に暖かく迎えられ、テレビやラジオに出演、自ら創始した格闘技ジークンドーの演武を披露した。ファンはリーの超人的なスピードで繰り出される華麗な技に驚き魅了された。そして、ブルース・リーに興奮していたのはファンだけではなかった。格闘技の天才であるだけでなく、子役時代から培われた確かな演技力も備え、加えてルックスも抜群に格好良かったリーに映画界のプロデューサー連中が注目しないわけがなかったのだ。それからテレビシリーズの「ロングストリート」にゲスト出演するため、再びアメリカに戻ったリーのもとへ香港から映画出演の依頼がいくつか舞い込んでくるようになった。
photoちなみに香港映画界の中で誰よりも早くリーに出演交渉をしたのは、後にあの「死亡の塔」を監督する事になる呉思遠だった。彼はこう証言している。
「アメリカにいるブルース・リーに最初にコンタクトを取ったのは僕だったんだよ。僕はリーの親友であるユニコーンと知り合いでね。彼を通してリーと交渉していたんだ。でも僕は若すぎてリーが要求するギャラを出せなかった。残念だよ…」
この時にリーが提示したギャラは1万米ドル。今の感覚からすると、とても安いように感じるかもしれないが、当時の香港映画主演スターのギャラが3000米ドルだった事を考えると、それがいかに高額であったかは分かるだろう。

『グリーンホーネット』で準主役のカトーを演じ、ハリウッドでは東洋人としては異例の成功を収めていたリーであったが、以後のキャリアは好転には至らず、70年代に入ると自らが暖めていた『勇者(燃えよカンフー)』『サイレント・フルート』の企画はことごとく流されてしまい、失意の日々を送っていた。企画が中断したのにはいくつかの要因があるが、そのひとつにリーが中国人であるということが最も大きく影響しているのは明白であった。リーは欧米社会における人種差別という壁の厚さを知り、ハリウッドを撤退し香港へ帰る決心をした。都落ちの気分を払拭する事は出来なかったが、ドラゴンの心は完全に折れていた訳ではなかった。
「香港で成功してハリウッドに舞い戻り、必ず白人共を見返してやる」との決意を固く胸に秘めての帰国であった。

帰国したリーが一番目を付けていたのは、東南アジア最大の映画会社ショウ・ブラザースであった。しかし「俳優は、安い賃金でこき使う」がモットーであるショウは、リーが要求するあまりにも高額なギャラに難色を示し、交渉は決裂してしまった。リーの才能は誰の目にも明らかであったが、デビュー作からそれほどの大金を支払う人間は現れなかった。たった一人の男を除いては…
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その男レイモンド・チョウはショウ・ブラザースから独立し、映画会社のゴールデンハーベストを立ち上げたばかりで、何とか看板スターが欲しいと思っていた。チョウはリーの模範演武をテレビで見て度肝を抜かれた一人であった。彼は社運をリーに賭けてみる事にした。そしてリーとの契約が成立。遂に『ドラゴン危機一発』の製作が決定した。1971年7月の事である。リーはロケ地であるタイへ飛んだ。他の出演者達はジェームス・ティエン、トニー・リューイン、ハン・インチェ、マリア・イー、ノラ・ミャオ、ラム・チェンイン等であった。皆一様にリーのアクションの素晴らしさに驚き、その実力を認めた。特にラム・チェンインはリーの才能に心酔し、香港に戻ってからスタントマン仲間にリーの凄さを説いてまわっていた。彼は、後にリーのアクションチームの一員となり、『燃えよドラゴン』ではリーと共同で武術指導を務め、『死亡遊戯』にも深く関ってゆく事になる。またティエンも『死亡遊戯』に塔を上る武道家の一人として出演し、リューインやノラ・ミャオも出演者の候補に挙がる事になる。
 
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